体操五輪選手と共に1969年創業、1970年法人設立(セントラルスポーツ)

セントラルスポーツは、後藤忠治氏のほか、五輪の体操で金メダルを獲得した2人の選手(小野喬氏、遠藤幸雄氏)らが共同で1969年に創業した。

1970年セントラルスポーツクラブ(現セントラルスポーツ)として法人格になった。

後藤忠治(ただはる)氏の人生

>若き日の後藤忠治氏 >後藤忠治氏

脱サラし、起業

後藤忠治氏は東京オリンピックの後、しばらくサラリーマンとして会社勤めをしていた。

大丸や東京工機などに勤務した。

そのころ、東京オリンピックの水泳監督だった村上勝芳氏が、日本最初のスイミングクラブを旗揚げした。

村上勝芳氏が子供たちに水泳を指導している姿を見て、「自分も未来の選手を育てたい」という思いが強くなった。

1969年、「水泳」と「体操」を教える教室として、セントラルスポーツを創業した。

一号店は佼正学園

1970年、宗教団体「立正佼成会(りっしょうこうせいかい)」の「佼正学園」(東京・杉並区)にスイミングクラブを開校した。

当時28歳だった。当時はスイミングクラブといっても一般に理解度が低かった。なかなか集まらなかった。3カ月間は人が集まらなかった。

創業して3年ぐらいは、やっと食いつなぐような状況だったという。

しかし、その後、「スイミングクラブ」と「ジム」を併設したスポーツクラブで成功した。

日本初の「フィットネスクラブ」

1983年には日本初の「フィットネスクラブ」をオープンした。場所は東京・新橋。「セントラルフィットネスクラブ新橋」という名前だった。

セントラル所属の鈴木大地が金メダル

セントラルの選手が、オリンピックの日本代表に選ばれるようになった。

セントラルスポーツ所属の選手としては、鈴木大地氏が有名だ。1988年、ソウルオリンピックの男子100m背泳ぎで金メダルを取った。政府のスポーツ庁長官になった人物だ。

ソウル五輪でバサロ泳法

ソウルオリンピックの優勝候補は予選で世界記録を出した米国のバーコフ選手だった。

鈴木選手は地道な努力を続けた。「バサロ泳法」という、スタート後に水中に潜りドルフィンキックで進む泳ぎを徹底的に磨いた。そして決勝でバサロを行う距離を25mから30mへ伸ばした。

それは直前に決断したのではなく、当初から綿密に計画した秘策だった。その頃、鈴木選手は息継ぎせず100mもバサロを続ける練習をしていた。また決勝に向けて爪を0.5cm近くも伸ばした。

最後のタッチはその指を「折ってもいい」覚悟でゴールに突き立てるということまで考え、実践した。バーコフ選手に勝利した時、その差はわずか1.5cmだった。

バブル時代の経営

バブル時代、豪華なスポーツクラブが流行した。東京の都心に多くの高級ジムがオープンした。

セントラルは、バブル崩壊直後の1992年7月、東京・港区に最上級クラブを開業した。第1次募集の入会金は40万円だった。保証金は250万円だった。

大型の風呂やサウナを併設した「ウェルネスクラブ」

21世紀に入って、ジャグジー付きの大型風呂やサウナを併設した「ウェルネスクラブ」を開業するようになった。

これは、高齢者に通ってもらうためだ。お年寄りの「リラックスと健康づくり」を目的としていた。

また、お風呂だけでも会費を払っていい、という人を増やす目的があった。

ウェルネスクラブでは、温泉やジャグジーといった水回りを充実させた。

1号店を千葉・柏に

2001年、千葉県柏市に「セントラルウェルネスクラブ柏(かしわ)」をオープンさせた。

延べ8910平方メートルという広さ。千葉県の常磐線「柏駅」近く。あらゆるスポーツジムのほか露天ぶろなどの温浴施設、マッサージルーム、ラウンジ、サウナなどを設けた。

また、クリニック、ドラッグストアも併設させた。

>セントラル柏のジャグジー風呂

▲セントラルウェルネス柏のジャグジー風呂

後藤忠治氏の経歴・プロフィール(年表)

年月日 出来事
1941年 千葉県生まれ。
1960年 日本大学(日大)の商学部入学
1962年 アジア大会に100メートル自由形で出場
1964年 室内選手権で100メートル自由形の日本新記録樹立
1964年 日本大学(日大)の商学部卒業
1964年 大丸入社
1964年 東京オリンピックに水泳・自由形選手で出場した。400メートルリレーで4位に入賞した。
1964年11月 大丸を退社
1964年11月 東京工機に入社
1969年 東京工機を退職
1969年 体操の小野喬氏、遠藤幸雄氏らと共に、セントラルスポーツを創業
1970年 セントラルスポーツ法人化
1977年 セントラルスポーツ社長に就任
1983年11月 「セントラルフィットネスクラブ新橋」をオープン
1999年4月 ウェルネスクラブを開設
2000年11月 ジャスダック上場(店頭公開)
2002年3月 東証二部に昇格
2004年3月 東証一部に昇格
2013年8月 ザバスを買収
2014年4月 社長就任

株式上場(2000年11月、ジャスダック)

2000年11月15日、株式上場(ジャスダックへの店頭公開)を行った。

上場時点ですでにスポーツクラブ業界で2位だった。1位はピープル(現:コナミスポーツ)。

首都圏を中心に直営のスポーツクラブ83店を展開していた。種類はフィットネス、水泳、体操など。

このほか、地場のスポーツ施設66店にインストラクターを送り込み、指導業務を受託していた。

ほかにチャイルドケア、エステティック事業なども手掛けていた。

■ 上場時点の経営状況
会員数 37万人
フィットネス業界シェア 10%
業界ランキング順位 2位
店舗数 スポーツクラブ83店
従業員 1134人
資本金 18億7000万円
売上高 328億円(2000年3月期連結ベース)
経常利益 24億円
純利益 6億円
社長 後藤忠治氏
資本金 18億7300万円
事業内容 スイミングスクール、スポーツクラブ運営
主幹事証券 野村証券
住所 東京都中央区新川1の5の17

上場の目的

  • ・財務体質の改善
  • ・知名度向上による会員の増加
  • ・新規出店関係の情報収集
  • ・優秀な人材の獲得

調達資金の使い道

上場で調達した資金32億円のうち、60%は借入金の返済に充当した。残りを新規の投資に使うことにした。

新規投資計画では、毎年平均4カ所に出店する、とした。1店舗あたり7億-8億円かかるという。

独立系

当時、スポーツクラブは、異業種の大企業がサイドビジネスとして経営していることが多かった。

これに対して、セントラルは大手企業グループに所属しない独立系だった。独立系であるが故に、他の業種の企業と競合することが少ない。様々な業種と提携しやすいというメリットがあった。

上場後の株価低迷

上場後、株価は公開価格を割り込み低迷した。

2000年11月の時点で、株式の時価のPERは12倍前後と業界1位のピープル(現:コナミスポーツ)のPER41倍に大きく水を開けられた。

株価低迷の主因は以下の点だった。

  • (1)公開時の地合いが悪過ぎた
  • (2)公開間もなく存在を認知されていない。

将来性はあると予想された。

証券アナリストの間では、将来性はあると予想された。

中高年層を中心に市場が伸びる見通しだったためだ。

フィットネス市場は成長過程にあった。

スポーツクラブの会員数は人口に対して1995年が2.0%だった。1998年には2.3%と、順調に増えてきていた。

高齢化社会を迎えるにあたって健康を意識して入会する人が増えていた。

息子を社長の跡継ぎに。世襲制を導入

後藤忠治氏は2014年3月、自分の実の息子である後藤聖治(ごとう・せいじ)氏をセントラル社長に就任させた。

自らは会長に就いた。代表権のある会長だった。

後藤聖治氏は当時、44歳だった。

後藤聖治氏の経歴・プロフィール

年月日 出来事
1941年 千葉県出身
1992年
(平成4年)
日本大学商学部卒業
1995年 三菱商事入社
1998年 セントラルスポーツ入社
1999年 取締役就任
2003年 常務就任
2007年 専務就任
2008年 順天堂大院スポーツ健康科学研究科修了
2011年 副社長就任
2014年4月 社長就任

参考動画

後藤忠治氏が「東京五輪1964」とセントラル創業を振り返る。